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広川晴軒(ひろかわせいけん)資料
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更新日:2025年4月1日更新
広川晴軒(1803~1884年)は、現在の本町にあった商家、広川三右衛門家の次男として生まれ、のちに分家の徳三郎家を相続したといわれています。
広川晴軒の肖像写真
安政5(1858)年、56才の時に算学者の佐藤雪山(せつざん)の弟子となり、万延元年(1860年)8月に江戸へ出て、洋学の大家である箕作阮甫(みつくりげんぽ)の塾で天文や窮理学(きゅうりがく、現在の物理学)などを学びました。慶応元(1865)年には西洋の物理学に刺激され『三元素略説』(さんげんそりゃくせつ)を著し、その中で温素(熱)・光素(光)・越素(えっそ、電気)の三元素が根本において同一のものであると論じました。
また、明治3(1870)年には、当時日本で用いられていた太陰太陽暦から太陽暦に改めるよう政府の諮問(しもん)機関である集議院に申し出るなど、日本科学史における先駆者の一人でした。晴軒は、小千谷縮が産んだ財力に支えられ、算学の流行が著しく、教育水準の
高かった小千谷という町に登場した、まさに小千谷らしい科学者といえるでしょう。
資料の中には、晴軒が使用した定規や測量道具、望遠鏡、天球儀などがあります。
文化財指定日 1957年2月25日
晴軒愛用の測量用具
晴軒使用の遠眼鏡
天球儀
明治三年に当時の集議院に送った建白書
晴軒の著した三元素略説の表紙