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岩村・河井会見の処(ところ)

印刷ページ表示 更新日:2025年4月1日更新

慈眼寺にある会見の間は、戊辰(ぼしん)戦争の際、慶応4(1868)年5月2日に長岡藩家老であった河井継之助(かわいつぎのすけ)が、小千谷に本陣を置いた新政府軍の軍監・岩村高俊(いわむらたかとし、精一郎、せいいちろう)と講和談判(だんぱん)を行った場所です。
岩村は、河井が持参した長岡藩主の嘆願書を見ることもなく、短時間で談判は決裂しました。長岡藩はこれ以降、新政府軍に抗戦することとなり、戦いは小千谷周辺の榎峠(えのきとうげ)や朝日山での戦いなどを経て、7月29日に長岡城が落城するまで続きました。なお河井はこれに先立つ7月24日の戦いで重傷を負い、会津に逃送中の8月16日に塩沢村(現・福島県只見町)で亡くなりました。
慈眼寺には、戊辰戦争に関する資料も保存されており、全国各地からたくさんの人が見学に訪れています。会見の間は、平成16(2004)年10月に発生した新潟県中越地震により全壊しましたが、全国から多くの寄付などが寄せられ、平成18(2006)年9月に現在の形に復旧しました。

文化財指定日 1972年4月1日

慈眼寺会見の間全景の画像会見の間の全景

今も残る会見の間の画像会見の間の内部

河井継之助の肖像画の画像河井継之助の肖像画

岩村高俊の肖像画の画像岩村高俊の肖像画

所在地 小千谷市平成2丁目3-35 地図
アクセス 関越自動車道小千谷インターから車で2分

1月に行われる文化財防災訓練の様子はこちらをご覧ください。

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